Yoyogi National Gymnasium 国立代々木競技場(旧国立屋内総合競技場)
木村 知弘(副社長) / 中山 勝貴(設計部 設計統括) / 村本 等(設計部 上席主任) / 岡部 新(設計部)
史上初への挑戦が、ダイナミズムと一体感を生み出した。
選手と観客の一体感を設計する。
戦後を乗り越え、日本が高度成長期に突入したときのエポックメイキングが東京オリンピックだとしたら、その偉業を今に伝える建物が国立代々木競技場だ。副社長の木村は言う。「設計にあたり丹下健三は、建築物としてのダイナミズムはもちろんですが、それ以上にこだわったのが一体感でした。選手のパフォーマンス、観客の応援、それがひとつになったときに、祭典にふさわしい素晴らしい空間が生まれると考えたのです。ではそれにふさわしい建物はどのようなものか?丹下健三の結論は、選手と観客を一体にするように包み込む無柱空間でした。オリンピック開催時は、何千、何万の人が出入りします。その流動性を確保することも重要なテーマだったのですが、入り口と出口をずらすことにより出入りがスムーズになり、人の流れを生み出すという機能性も併せもつこともめざしたのです」
前代未聞、史上初となる
吊り構造への挑戦。
一体感とは、その一瞬に、選手も観客もすべての人が熱中することだ。一体感を追求した建物の場合、それに水を差すものは不要になる。木村はこう続ける。「柱の存在も一体感の妨げになると丹下健三は考え、導き出した回答が屋根を吊り構造にする設計。引っ張る力により屋根を吊り、大空間を実現するものです。橋などの設計では一般的なものでしたが、施設、それもこれほど巨大な大空間の屋根を吊り上げる建築物はどこにもありませんでした。丹下健三はやる気満々だったそうですが、当時のスタッフは初めてづくしのことなので、かなり勇気のいる挑戦だったと言っていました」
工期の短さを、一体感で乗り越える。
手本となるものが世界のどこにもない建築構造への挑戦。しかしスタッフが勇気のいる挑戦だったと思った理由はそれだけではなかった。工期が500日ほどしかなかったのだ。木村は当時のことをこう言う。「現代なら絶対実現できない工期です。しかし設計は丹下健三が考えに考えてこれしかないと言ったものです。スタッフも、施工会社の方も、寝る間を惜しんで取り組んだといいます。その年の大晦日、『紅白歌合戦』のあとの『ゆく年くる年』で、あそこだけは工事を行っていますと放送したほど。また、施工中は、経験したことのない数多くの問題に遭遇したと聞いています。立ちはだかる問題に対峙し、乗り越えることができたのは、丹下健三もそうだし、スタッフも、施工会社の方もそうだったと思うのですが、なんとかして東京オリンピックを成功させるんだという熱い想いがすべての人にあったからでしょう。プランニング、デザインの段階から、施工、完成へいたるまで、そんな一体感ができていたのです」
完成は終わりでなく、
始まりと考える。
建築とは建物ができあがったら終わる仕事だと思ったら、それは大きな間違いだという。人間でも年を重ねていくとメンテナンスが大切になるように、末長く維持していくには建築物にも手をほどこすことは重要。特に数々の歴史的建造物を造ってきたTANGE建築都市設計の場合、その保存や再整備にかかわる計画に携わる機会が増えてきたと木村は言う。「改修の内容は耐震補強、機能更新、外装・内装の劣化補修などさまざまです。国立代々木競技場でも、これまでに屋根の全面塗装や外装の改修、バリアフリーへの改修や耐震性の向上など、大規模な改修を行ってきました。国立代々木競技場の歩道は石畳ですが、完成当時はけっこうでこぼこしたものでした。その当時はバリアフリーという考えがあまり浸透していませんでした。しかし今は違います。石を1枚1枚剥がしてグラインダーで平に削って張り直しました。削り過ぎると風合いが損なわれるので、丹下健三がめざした雰囲気を残しながら丁寧に削っていきました。この石畳が象徴するように、改修計画にあたってはTANGE建築都市設計が大切にしていることは、単に元の形に復元するということだけではなく、その建築の価値がどこにあるかを考え、丹下健三がその建築に込めた意図を大切にしながらこれからも活用されつづける生きた建築として整備していくことが大切だと考えています。TANGE建築都市設計にとって、建物の完成は終わりではなく、それを維持し、次代へ伝えていく仕事の始まりであり、そしてそれはTANGE DNAを次の世代へ伝えていくことに他なりません」
アスリートファーストの競技場を。
TANGE建築都市設計は、2020年東京オリンピックの水泳競技会場となる施設の設計も担当している。1964年の東京オリンピックのときが丹下健三。2020年の東京オリンピックは丹下憲孝が設計にあたる。丹下憲孝もまた、一体感のある設計をめざしているけれど、丹下健三のときとは事情が違うと設計部の中山は言う。「オリンピックのあり方から考え、オリンピックらしさ、日本らしさ、東京らしさを踏まえた空間とはどのようなものかを考えました。これは丹下健三の時代も同じだったと思うのです。しかし私たちはさらにプラスして、建物のその後も考えたプランを提案しています。『国立代々木競技場』は、現在、イベント会場としても利用されています。丹下憲孝が手がける水泳競技場も、オリンピックが終わってからもレガシーとして使える空間デザインをめざして設計にあたっています」
また、今回、丹下憲孝は「アスリートファースト」の設計に取り組んだと中山は言う。「時代が違えばオリンピックのあり方も変わり、それは建築にも影響は及ぶのですが、どんな時代であっても競技場に求められるのは、アスリートと観客が一体となって、その結果、すばらしい試合が展開されることです。ですから丹下憲孝と私たちは、実際に、何人ものオリンピックメダリストに会って、使いやすいプールと使いにくいプールの違いについてヒアリングをしました。背泳ぎのアスリートは天井のラインがシャープでないと方向感覚が鈍って距離感がわかりにくくなると言い、クロールや平泳ぎのアスリートは、プールの壁面が近く感じるといい結果がでると教えてくれました。空間設計が記録にも影響を及ぼすのです。そんな意見を設計へ落とし込む作業を行いました。アスリートには少しでも好記録を出してほしい。そのための設計を考えることこそ、それはアスリートファーストの設計になります。『カタチ、そして心地』という考えは、競技場の設計においては「アスリートの心地」として踏襲されています。『オリンピックアクアティクスセンター』の完成はまだ先になりますが、どのような空間が誕生して、そこでどのような一体感が生まれ、どのようなドラマが展開されるか、期待していただきたいですね」
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